DEATH.

「DEATH.」は、あらゆる職業や立場の人との対話を通して「死」を探求するプロジェクトです。

人生は生まれたときからデスロード。「楽しんで死ぬ」ための古くて新しい健康論

全長約1.3キロ。関東有数の長さで知られる戸越銀座商店街には、きょうも老若男女さまざまな人が行き交う。人気鍼灸師・若林理砂さんが代表を務めるアシル治療室は、そのちょうど真ん中あたりにある。

約束の時間よりやや早く着いたため、道の反対側で待たせてもらう。ガラス窓の向こう側に、患者さんと話す若林さんらしき女性の姿が見える。

東洋医学をベースに、宗教学や格闘技にも精通するカリスマ鍼灸師。そんな彼女のもとには、体と心にまつわる「なんとなくの不調」を訴える男女が殺到する。新規予約は、なんと2年待ちという。

「明らかに浮いていたから、すぐに取材の人だなとわかりましたよ」

診察を終え、出迎えてくれた若林さんは、歯切れのいい言葉、カラッとした笑いが印象的な女性だった。終末期医療にも関わり、日ごろから死とも近い距離にあるはずなのに。いや、死と近いからこそのこの明るさ、湿度の低さなのかもしれなかった。

そんな若林さんの最新著が『絶対に死ぬ私たちがこれだけは知っておきたい健康の話』(以下、『絶これ』)。いわゆる健康本にカテゴライズされる一冊なのだが、健康について語るのに「絶対に死ぬ」とは、どういうことなのか。

今回は「健康とはなにか」を捉え直すことから、死、そしてより良い生について考える。

死ぬまでの間を楽しく過ごす

——『絶これ』を読ませていただいたのですが、まずタイトルにドキッとさせられました。健康本のタイトルに、なぜあえて「絶対に死ぬ」と入れようと思ったんですか?

あれを入れようと言ったのは、実はミシマ社の担当編集の人なんです。打ち合わせ中に私が「最後はどうせ死んじゃうんですけどね」「みんなどうにかして健康でいたいと言うんだけれど、結局は死ぬんだから」と繰り返し言っていたら、「これ、入れましょうよ」って。

でも、実際その通りじゃないですか。誰でも最後は必ず死ぬ。生まれてくるところと死ぬところ、最初と最後は平等なんです。

だとしたら重要なのは、その間をどう楽しく生きられるか。その「楽しく生きる」ために必要なのが、健康なんですよ。生まれてから死ぬまでの間を楽しく暮らすため。それが健康であることの理由だと思っているんです。

中には「健康=長生き」だと考えている人もいるけれど。でも、ただ長く生きていればそれでいい、というわけではないですよね?

——まあ、なんのために長生きするのか、というところがなければ……

そうそう。楽しくなければ。

健康が担保されていないと、その楽しさが減ってしまうんですよ。動けて、美味しいものが食べられて、誰かと会って楽しいことができる。そのために健康がある。健康のために健康があるわけではない。なのに、健康であることが目的化している人ってのが結構いて。

だから、あえて「ラストは決まっていますよ」と言いたかったところがあります。必ず最後は来る。それまでを楽しむための健康について話すのが、この本ですよ、と。このタイトルには、そういう意味を込めています。

——まえがきでは、WHOによる健康の定義(*1)に疑問を呈してもいました。これも、あまりにも窮屈に定義してしまうと、健康を追求することがかえって人生を苦しいものにしてしまうから?

*1:WHO憲章では「健康」を「肉体的、精神的及び社会的に完全に良好な状態であり、単に疾病又は病弱 の存在しないことではない。」と定義している。

そうです。「健全な」なんて言われると、「健全かあ……」という感じがしちゃうじゃないですか。「楽しい」というのは、なにも健全な話ばかりではない。楽しいことというのはむしろ、ほとんどが不摂生なものだったりしますよね。

でも、その不摂生なことを毎日続けていたら、体は壊れてしまいます。だから本の中では、ハレとケの話をしているんです。ハレの日をわーっと楽しむために、ケの日は黙々と養生する。そういう健康のかたちもあっていいのではないか、と。

——個人的な話ですが、もともと『二郎系』と呼ばれるこってりラーメンが好きで。以前は毎日のように食べていたのですが、最近は頻度も減り、それだけ不健康になったのかと思っていました。でも、「ハレの日にだけ食べる。そのために健康をつくる」という考え方もあるんですね。

二郎みたいな食べ物を毎日食べていたら、そりゃ体には悪いですよ。でも、だから食べるのを一切やめるというのでは、人生、楽しくないですよね?

食べるのは特別な日。その特別な日に楽しく食べられるための体を作る。そう考えたら、普通の日にはちょっと節制しようという気にもなるじゃないですか。

健康であることが難しい時代



でも、そういう考え方がしづらい時代になってきているのも感じます。どうしたって、ハレとケがわからなくなってきているから。普通の日にもハレが入り込んできちゃっているので。

——どういうことでしょうか?

私が生まれたのは1976年。高度経済成長は終わっているけれど、まだモノで溢れかえっているという時代ではありませんでした。コンビニもまだなかった。栃木県生まれなんですけど、初めてセブン-イレブンがやってきた時のことは、いまでもよく覚えているくらいで。

お店が遅くまで開いていること。アイスクリームがいつでも買えること。これだけでもビックリなんですよ。それまで、アイスクリームは冬になると売っていなかったから。ボックスに鍵がかかっていて、中身は空だったんです。

——ああ、ありましたね、そんな時代。

お茶菓子なんかも、買いだめして、お客さんがきた時のために戸棚にしまってあって。コンビニみたいなところで「いま買ってきて、いま出す」ということは、基本的になかったんです。

お酒だってそうです。町の酒屋さんに「ビールをワンケース」と頼んでおくと、昼間のうちに届けてくれて。それを夜になって飲んでいたんですけど、飲みきってしまえば、その日の分はもう終わり。

それがいまでは、コンビニやスーパーへ行けば、24時間いつでも買えるじゃないですか。アマゾンで頼めば、家を出る必要さえない。こういうことを指して「ハレとケの区別がなくなっている」と言っているんです。

そうすると食事の内容なども、なんとなくハレの日のものに偏ってくる。「きょうはお肉だ、ご馳走だ!」とか「今夜は外食? やったー!」なんて感覚、もうないでしょう?

ハレとケの区別がなくなり、平坦な感じになっていくと、人はだんだんとハレの方に寄っていくものなんです。ケを遠ざける。だから、ハレがずっと続いているような状態になる。

「死がタブー視される」「死が遠ざけられている」というのも、こうした文脈で理解できますよね。だって、最大のケにあたるのが「死」なわけだから

——最大のケが死?

「喪に服す」って言葉があるじゃないですか。「喪中」に食べるおにぎりって、シャケとかおかかとかの、動物性の具を入れないんですよ。ご馳走といっても、しばらくは植物性のものに限られていて、精進落としの時になってようやく、肉や魚を出し始める。そうやってハレとケを区別していたわけ。

それがいまでは、ケは遠ざけられ、ハレの日だけが続いている。だから健康法の話にも、あまり死の話が出てこないのかもしれないですね。

——かつては世の中の仕組みとしてハレとケが分かれていたけれど、それがなくなったいまは、健康でいることが難しくなっているとも言えるわけですか。

ハレばかり続く生活は、当然のことながら、人間の体にはトゥーマッチ。自分の意思でコントロールしないといけないんだから、それは難しいですよ。

相次ぐ肉親の死に「これは平等なゴールだ」

——このように死が遠ざけられた時代ですが、若林さんはお仕事柄、死を意識することが日ごろから多いのでは?

おっしゃる通りで、私は鍼灸師なので、ターミナルケア(終末期医療)と呼ばれる部分にも関わることになります。その中には、若くしてターミナルに入る人もいれば、ある程度年齢がいってから入る人もいる。かたちは人それぞれですが、そうやってたくさんの患者さんと接する中で、「誰もみな最後は死ぬ。それは覚悟しないといけない」と思うようになりました。

そして、どうすればそれまでを楽しく暮らしていけるかについても、患者さんから教わっているところがあります。

——著書には「昔から死への好奇心があった」とも書いてありました。

子供のころは、死ぬことに対して強い恐怖心がありました。

死が最初に身近になったのは、曽祖母が亡くなった時だと思います。在宅で介護していたのですが、奥の部屋で寝たきりのおばあちゃんがどんどん細く、ガイコツのようになっていく。その部屋に入るのがまず、怖かった。褥瘡(じょくそう)のケアをチラッと見て、「死ぬ前にはこんなことが起こるのか」と思ったりもして。

亡くなったあと、葬式は湯灌を行ったのですが、怖くて触れなかったですね。死ぬのは怖いことという感覚が、このあたりで出来上がりました。

さらに、その1年半後くらいに、今度は母がばったりと倒れて亡くなったんです。うつぶせに倒れているのを妹が見つけた。背中には紫色のチアノーゼが出ていて、子供ながらに、直感的に助からないことがわかりました。出張先の父から電話で「脈をとってみろ」と言われたんですけど、やっぱり触れなかった。死んでいることを認めたくなかったんでしょうね。

こうして、死は突然やってくること、コントロールは不能で、全員に起こりうることだと認識し始めました。「必ず来るものなのであれば、私はどうすればいいのか」と考えるようにもなって、ずっと死に追いかけられているような感覚でした。

でも、あるところでそれは追いかけてくるものではないとわかったんですよ。自分がそれに向かってまっすぐ走っているのだな、と。死はゴールなのだという感覚に変わったんです。

——なにかきっかけが?

その後、20年ほど間は空きましたけど、祖父、祖母と順番に亡くなって。田舎の家に誰もいなくなって、私が片付けることになったんです。そういう状況を前にして「これ、どうしようもなくない?」って。

なにを買おうが、なにを手に入れようが、死んだらすべて置いていくことになる。お墓に入れるわけにはいかないし、入れたところで本人が持っていけるわけではない。となった時に、「ああ、これは追いかけられて絡め取られるのではなく、ゴールがあそこなんだ」と悟ったんだと思います。そこで、なにか腹が決まったところがありました。

洋の東西で違う、死や健康の捉え方

——そう聞くと、若林さんがその後歩んだキャリアは必然のようにも思えますね。ところで、若林さんは東洋医学と西洋医学の両方に精通していると伺いました。東洋と西洋とで、死や健康の捉え方はどう違うのでしょうか?

だいぶ違うと思いますね。

東洋医学の健康観は、寿命というのはあらかじめ決まっていて、うまいこと使ってあげれば、その寿命を損なうことなく、天寿を全うできるという考え方。全体で捉え、持てるエネルギーを余すことなく使い切ろう、と考える。

対して西洋医学は、全体というより部分の総和で捉えます。喫煙で肺がんが増える、肥満で心臓病が増えるなど、健康を損なう行動というものがデータとしてはっきりと出ている。そういう行動をやめることで、死亡のリスクを減らせる。そうやって、寿命が延ばせると考えるわけです。

——そうした違いは、患者への対応でどのような違いとして表れますか?

たとえば、実際にいらした患者さんの例で考えてみましょう。感覚的には痛みがある。でも、どこからきている痛みなのかはわからない。なので、まずは医者へ行ってみよう、となる。

血液検査をして、CTスキャンもMRIも撮った。X線にもかけた。でも、どこにも異常がない。そうすると、西洋医学では「問題ない。健康だ」という結論になります。

——間違いなく痛いのに?

そう。そして、そういうタイプの痛みには痛み止めもあまり効かないんです。そういう患者さんが、私のところへやってくる。

逆のパターンもあります。関節がすり減っていて、中には水が溜まっている。整形外科医からすると、明らかに異常がある。だから医者は「痛いでしょ?」と繰り返し聞くんだけど、患者の方は「いや、痛くないです」。散々問答を続けた挙句、喧嘩になってしまった、なんて話もよく聞きます。

このあたりが健康観の違いですよね。西洋医学では、機能が損なわれていなければ、器質的(*2)に変化があっても問題ないと考える。東洋医学では、仮に機能が損なわれていたとしても、日常生活の動作ができるなら問題ないと考える。

*2:物理的な変形や細胞の破壊、傷などがあること。

——では、若林さんは西洋的な医療に関して否定的?

いや、そういうわけではないです。どっちも使うので。

先ほどの、血液検査をして、CTスキャンもMRIもX線も異常がないけれど、「痛い」という患者さん。その時に私がやった治療というのも、整形外科的な治療です。神経の圧迫が痛みを起こしている可能性がある。その圧迫が取れれば痛みが取れるはずだという話をした上で、そのような治療をする。これは西洋医学的な治療です。

——だとすると、なぜ西洋医学の医師に同じことができなかった?

それは、画像診断上では問題視されないくらいの圧迫だったからでしょう。それだと、整形外科では治す術がないんです。リハビリの範疇なので、理学療法士に連携していればおそらくはなんとかなったのだけど。パーツパーツで考えるのが西洋医学だから、連携ができない。その弊害とも言えます。

でも、パーツパーツで考えることにはいいこともあります。そのおかげでそれぞれの技術が発展し、これだけ救命率が上がっているとも言えるわけだから。

先ほどの私の処置は、考え方としては東洋的、手法としては西洋的、という表現でもできるかもしれません。どちらもいいものなんだから、適切に使い分けようよ、というのが私のスタンスなんです。

人の数だけ健康はある

——健康とひとくちに言っても、さまざまな捉え方ができるんですね。関連して思い出したのが、最近出会った身体障害のある方のことでした。とても生き生きとしている彼を見て、障害があるがゆえに健康でないのかといえば、そうではないよな、と感じたんですよね。

その通りです。なぜって、人にはそれぞれの中庸があるから。

たとえば我々鍼灸師は、がんを患っていて、残された時間はあまりないという患者さんに対しても、「その人にとっての健康はなにか」を考えながらターミナルケアをするわけです。その人が残り少ない人生で一番やりたいことはなにか。そのプライオリティの高いところに注力できるための健康を考える。

だから、施術の前には必ず「なにがしたいの?」と聞きます。原稿が書きたいのか。音楽が作りたいのか。なんでもいいんですけど、それに特化したかたちでその人のための中庸を作っていく。

とりあえずキーボードが叩ければいいのであれば、ほかはとりあえず置いておいて、手が動くように炎症を抑えるようにする、とか。歩けさえすれば良いというのであれば、必ずしも曲がった箇所をまっすぐに戻す必要はないかもしれない。ただ、極端に曲がっていると痛みが発生するというのであれば、そこにも調整をかけていく。

だから、なにが健康かというのは、結局のところ一人ひとり違うんですよ。WHOの言うような、ピッカピカの健康なんて嘘。そんな絵に描いたような健康なんて、どこにもないんです。

——ある種「●●したい」と言えないことが、健康から遠ざかる大きな要因になりうるわけですよね。自分にとっての中庸がなにかわからない状態であるわけだから。「なにをしたい?」と聞かれて、答えられない人っていないんですか?

います、います。「どうしたいの?」と聞いたときに答えられない人。あるいは人の価値観を話し始める人が。自分が健康になりたいと思う理由がない。

これは「人生に関する話」と言い換えることもできます。人生における優先順位を決められない人がたくさんいるんです。でも、それってすごくもったいないことですよね?

冒頭の「必ず死ぬよ」と言うようにしているという話も、ここにつながってくるわけです。時間はそんなにないよ、と。どうせ100年足らずで死んでしまうのが人間なわけだから。人生は有限。モタモタしていたら、なにもしないまま終わってしまう。そう思ったら、「自分がやりたいことはなにか」と、真剣に考えることにもつながるんじゃないでしょうか。

 

臨床家・鍼灸師

若林理砂(ワカバヤシリサ)

臨床家・鍼灸師。1976年生まれ。高校卒業後に鍼灸免許を取得。早稲田大学第二文学部卒(思想宗教系専修)。2004年にアシル治療室を開院。予約のとれない人気治療室となる。古武術を学び、現在の趣味はカポエイラとブラジリアン柔術。著書に『気のはなし 科学と神秘のはざまを解く』『絶対に死ぬ私たちがこれだけは知っておきたい健康の話』(ミシマ社)、『安心のペットボトル温灸』(夜間飛行)、『決定版 からだの教養12ヵ月――食とからだの養生訓』(晶文社)など多数。

noteマガジン「きょうの養生」https://note.com/lisawaka/m/m4b657f154f9d
twitter:@asilliza
Instagram:risawakabayas1

 

写真:本永創太

執筆:鈴木陸夫

編集:日向コイケ(Huuuu)

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