DEATH.

「DEATH.」は、あらゆる職業や立場の人との対話を通して「死」を探求するプロジェクトです。

「生きて帰るまでがデスマッチ」47歳カリスマレスラーが今日もリングで血を流す理由

プロレスに「デスマッチ」というジャンルがある。

凶器あり、反則裁定なしの究極ルール。蛍光灯で殴り合い、有刺鉄線ボードの上にダイブ。相手の脳天に躊躇なく竹串の束を突き刺す。傷だらけの体がぶつかり合うたび、ガラスの破片混じりの血飛沫がリングサイド席のこちらにまで飛んでくる。

初見の人は、きっとみんなこう思うに違いない。「この人たちはなぜここまでお互いを傷つけ合うのか」「自分は一体なにを見せられているのか」と。

そんなデスマッチ界で「カリスマ」と呼ばれるのが、独立系プロレス団体FREEDOMS所属のプロレスラー葛西純選手だ。

2009年11月、東京・後楽園ホールで行われた伊東竜二選手との「カミソリボード+αデスマッチ」。当時35歳の葛西選手は、2階バルコニーからテーブル上の伊東選手目掛けて、落差6メートルのダイブを敢行する。

撮影:小澤雄司

その後もさまざまな凶器を駆使した攻防が続き、30分の制限時間15秒前に劇的決着を見たこの試合は、その年のプロレス大賞ベストバウトを受賞。勝利した葛西選手は、一夜にして生ける伝説になった。

あれから12年余。葛西選手は47歳になったいまも、デスマッチ界のトップに君臨し続けている。文字通りの「死闘」を重ね、体はもう若いころのようには動かない。それでも今日もまた、自ら死地へと足を踏み入れるのはなぜなのか。

生と死のはざまで人々を熱狂させる、デスマッチのカリスマに聞く死生観。

「生きている実感」を求めて

——普通は痛いこと、苦しいことから逃れようとするもの。葛西選手はなぜ今日もリングに上がり、血を流すのですか?

ははは。見ている側からしたら「なぜわざわざこんな痛いことをやっているのか」と思うでしょうね。それが普通の感覚だと思う。でも、やっているプレーヤーからすると、そうではないんですよ。

普段生活していて、「ああ、生きているって素晴らしい」なんて感じることがあります? 思わずそんな言葉を口走っちゃうなんて、ほとんどないんじゃないですかね。

デスマッチのリングで生きるか死ぬかのすれすれの戦いをして、試合を終えてリングを降りる時に、それを感じるんですよ。「ああ、生きてる」「(生きていることに)ありがとう」って。だからやめられないんです。

おそらく登山家やスタントマンの方も似たような感覚なんじゃないかな。命を落とすかもしれない状況に自ら踏み込んでいき、無事に帰ってくる。そのことによって得られる「生きている実感」を求めているのではないか、と。

そういう感覚は、どうやらお客さんにも伝わるみたいで。「葛西純のデスマッチを見て、前に進む気持ちになった」と言ってくれるお客さんが本当に多いんです。

「学校でいじめに遭っていて、ずっと行くのが嫌だと思っていたけど、行こうという気持ちになった」とか。「会社へ行くのはしんどいけど、葛西があれだけ血を流して頑張っているのなら、俺も頑張って仕事に行くしかないか」とか。

いまはコロナでそういう機会も減りましたけど、以前は売店で物販をやっていると、ファンの方からそういうことを言われてね。

ですからデスマッチは、やっている自分が生きている実感を得られるものであると同時に、どうやら見ているほうも、生きることに対して前向きになれるカテゴリのようなんですよ。

——リング上に「死」というものがセンセーショナルに現れるからこそ?

そうでしょうね。だって、見るからに痛いことをやっているわけだから。

でも、勘違いしないでほしいんです。俺たちは別に、死に急いでいるわけでも、命を無駄遣いしているわけでもない。いつも言っているのは「生きて帰るまでがデスマッチ」ということで。

——生きて帰るまでがデスマッチ。

死ぬかもしれない、大怪我をするかもしれないリングに上がって、本当に死んだり大怪我したりしちゃったら、それはその辺の素人の兄ちゃんと変わらないじゃないですか。死ぬかもしれない状況の中に飛び込んでいって、究極的には、無傷でリングを降りる奴が一番すげえし、一番かっこいい。

スタントマンだってそうでしょう? 生きて帰ってくるから「すごい」と言われるのであって、死んでしまったら、それはもうプロ失格ですよ。

35歳、試合中に180度変わった死生観

でも、若いころの考えは、いまとはまったく違いました。「生きていることに感謝」なんて思ったこともなかった。リング上ではとにかく危ないことをして、とにかく相手をぶっ倒す。それが自分の仕事だと思っていたので。

危険なことをすればするほど「葛西、すげえ!」って言われるじゃないですか。それが気持ちよかった。まかり間違って死んでしまっても仕方ないと思って、毎試合リングに上がっていました。それくらいのことをやってでも「デスマッチは死を連想させないといけない」と思っていた。

——そこまで大きく価値観が変わったのには、なにかきっかけが?

2009年に伊東竜二と後楽園でやった試合。あれを境に180度変わってしまいました。

実はこの日、自分は「これを最後に引退しよう」と思って会場へ行ったんです。最後の試合だから、自分のやりたいことをやりきろう。勝っても負けても、試合後に「今日で引退します」と言おうと思ってリングに上がりました。

でも、試合をしているうちに気が変わっちゃったんですよね。「このまま辞めてしまったら、俺は廃人になってしまう」と思えてきて。他にやりたいことがあるわけでもないし、こんなにも生きることの喜びを味わえることはないな、と。それくらいに楽しすぎたんですよ。

撮影:小澤雄司

それで、残り時間15秒で勝った後、「引退しようと思っていたけど、まだまだ続けるぞ」と現役続行を宣言して。変わったのはそれからです。

——リング上で死んでもいいと思っていたところから大きく価値観が変わったいま、葛西選手が考える「理想の死」はどんなものですか? 

いつも通り家族とともに一日を過ごして、いつも通りにテレビでも見ながら晩酌をして、いつも通りに気持ちよく布団に入って、そのままぽっくり逝ってしまう。それが最高の死、ですね。

さっきも言いましたけど、「リング上で死ぬのが本望」なんて、かっこつけているだけですよ。プロなら生きて帰ってなんぼ。そして、人間・葛西純の命が尽きる時が、レスラー・葛西純としても死ぬ時だと思っています。死ぬその時までプロレスラーでいたい。それがいまの気持ちです。

若いころは体が動くうち、かっこいいうちに「まだまだできるのにもったいない」と言われながら引退するのがプロレスラーとしての美徳と思っていましたけど。でも、自分は一番かっこよく引退できるタイミングをもう逃しちゃったから。

ここまで来たらもう、いっそ死ぬまでやることが美徳なのかもな、と。40歳を超えたくらいから、そう考えるようになりましたね。

歳をとる=レベルアップ。死ぬ間際が全盛期

——長く続けていると、肉体的な衰えは必ず来ると思うんです。葛西選手は老いの問題とはどう向き合っていますか?

「老い」っていうのは人間が勝手に作り出した言葉じゃないですか。そうである以上、必ず乗り越えられるもの
だというのが自分の考えで。「年齢を重ねること=老い」とは考えていないですね。

そりゃあ若いころと比べれば体力は落ちてるし、肉体的な衰えはたしかにありますよ。でも、それ以上に精神の部分で成長を続けていられたら? プラマイゼロどころか、レベルアップすることだってできるのでは? 47歳のいまはレベル47。来年はレベル48。毎年レベルアップしていくというように、いまは歳をとることをポジティブに捉えてます。

だから、葛西純の全盛期はまだまだこれからですよ。死ぬ直前に全盛期が来ると思ってやっているんで。一番強くなった時にぽっくり死ぬ。それが自分の思い描く理想です。

かつては年齢を重ねることに引け目を感じていた時期もありましたよ。30代半ばごろは、肉体的に衰えることを嫌だなと思っていました。

でも、晩酌しながら何気なく矢沢永吉さんのドキュメンタリーを見ていた時に、ふと思ったんです。「考えてみれば、若くてもかっこ悪い奴はかっこ悪いし、ジジイでもかっこいい奴はかっこいいんだな」って。そこからちょっと考え方が変わりました。「歳をとること=レベルアップ」って言葉を使い出したのも、このころからじゃないかな。

——一般人ならともかく、肉体を武器にするアスリートが老いをそのように捉えるのは意外でした。

プロレス、デスマッチっていうのは、スポーツの中でも特殊なジャンルなんですよ。陸上競技や水泳のように、1分1秒を争う競技ではない。若いころのようには動けなくても、試合中の表情だったり間の取り方だったり、表現の方法がいろいろとあるんです。

イケメンでマッチョで身体能力がすごくても、しょっぱいレスラーはいます。逆に自分のようにブサイクで体が小さいおっさんでも、そこそこ支持を得られたりもする。すごく変わったジャンルですけど、だからこそプロレスは面白いんですよね。

——精神面の衰えについてはどうですか? 葛西選手のドキュメンタリー映画ではモチベーションを高く保つことの難しさを指して「デスマッチED」と言っていました。

いやー、その問題はたしかにありますね。若いころは夢も希望もやりたいこともわんさかあるからいいけれど。歳をとって、ある程度のことを成し遂げると、だんだんとそうでもなくなってくる。

そんな中でなにでモチベーションが上がるかと言えば、やっぱり「こいつにだけは心底負けたくねえ」「こいつにだけは美味しいところを持っていかれたくねえ」と思える人間の存在じゃないですかね。自分の場合だったら、たとえば竹田誠志。あるいは他団体ですけど、新日本プロレスのエル・デスペラードとか。

3、4年前から「刺激をくれ」と言い続けているのもそういうことで。葛西純を脅かすような人間にどんどん出てきてくれ、と。まあ、一方で、本当に美味しいところを持って行かれたらそれはそれで困るから、難しいところでもあるんですけどね。

死への恐怖が「自分勝手な人生」へと導いた

——ところで、いまさらのようですが、あんな過激なことをして、怪我をすることや死ぬことへの恐怖はないんですか?

さっきも言ったように「生きて帰ってこそのプロ」。怪我をしない、死なないための、プロとしての技術は持っているつもりです。

でも、「恐怖がない」と言ったら嘘になりますね。いまでも試合の何日も前から緊張して眠れないことがあるくらいで。こんな顔して、結構ビビりなんですよ。自分の人生は結構、死への恐怖に突き動かされてきたところがあります。

——どういうことですか?

笑い話のようですけど、小学生の時は「ノストラダムスの大予言」を真面目に信じていましたし。知ってます? 「1999年7の月に人類は滅亡する」。自分が24歳の時に死んでしまうのかと思って、毎晩布団の中で震えてました。

その恐怖が行くところまで行って、最終的には「どうせ地球が滅亡するなら、勉強なんてしていても仕方ない。残りの時間は好きなことをして生きていこう」と開き直ることになった。そこから一切勉強するのを止めて、大好きなプロレスばかり見て過ごすようになりました。

プロレスラーになったのも、死への恐怖の裏返しでした。高校卒業後に上京してガードマンの会社に就職したんですけど、まんまと誘惑に負けて、風俗通いの日々。ある日たまたま読んだ雑誌のHIVチェックシートをやってみたら、ほぼすべての項目に当てはまって。

そのころはまだ「エイズ=死ぬ」と思われていた時代だったから、「ああ、これはエイズだ」「俺はこのまま死ぬんだ」と思ってしまった。

受けた検査は幸いにも陰性でしたが、そこで死を覚悟したところから「やっぱりやりたいことをやろう」と思って大日本プロレスの門を叩いたんです。自分の人生には常にそういうところがあります。

——レスラーには早世する方も多い印象です。そういう時にも恐怖が増しそうですね。

いや、それがそうでもなくって。他人の死には案外ドライで、「そういう人生だったんだな」と受け止めているところがあります。おそらく自分の死への恐怖というのは、死そのものというより、無になることへの恐怖なのかな、と。

——無になることへの恐怖。

丹波哲郎じゃないですけど、死んだとしても、その先に霊界があり、三途の川があるというなら、それほど怖くないじゃないですか。「死んでもいいや」とまでは言わないですけど、ある意味で希望がある。逆に「死んだら完全に無になる」「死んだ先には楽しいも悲しいもなにもない」、そう思えるから怖いんですよ。

でも、最近は死ぬこと自体に以前のような恐怖を感じなくなってきましたね。仮にこの取材が終わった直後にダンプカーに追突されて死んだとしても、悔いなく死ねる。そう言えるくらいに、やりたいことをやってきたから。

プロレスラーは人気商売ですけど、自分はお客さんに媚びを売って声援をもらおう、人気者になろうと考えたことは一度もないんです。結局、葛西純というのは自分ファースト。自分が一番なんですよ。

自分のやりたいことをやって、それにお客さんが付いてきてくれればいい。「つまんないと思うなら見なくていいよ」というスタンスを貫いてきたのが、自分のプロレス人生と言えるんじゃないかな。

なんの未練もなく死ねる奴が人生の勝ち組だ

——でも、そういう生き方を真似したくても、普通は食いっぱぐれること、受け入れられないことへの恐怖があるものでしょう。なぜそこまでストイックに自分の表現を貫けるのでしょうか?

真似なんてする必要あります? こんな自分勝手な性格、直せるなら直したいくらいですよ!

でも、これはさっきの「無になることへの恐怖」の話とつながるのかもしれないですね。小さいころから思っていたんですよ。「実はこの世界はすべてまやかしなんじゃないか」「自分が見ている夢なんじゃないか」って。

この世の中に、たしかなものなんてなにひとつない。あるとすれば、それは自分のこの肉体、この感覚だけ。要するに、自分以外信じられないからこその自分ファーストなのかもしれないです。

——「生きている実感」を得るべく、痛みにあふれたデスマッチの世界に身を投じるという、冒頭の話にも通じますね。

そうそう。こうやってつねって痛いのだけが信じられる、というね。

でも、若い人に食いっぱぐれることへの恐怖があるのはわかりますよ。自分も30歳前後の、長男が生まれたばかりのころは、そういうことにとらわれていましたから。

とにかく金がなかったし、国民年金保険もろくに払えずに、区役所へ行って「払う意思はあるんで、ちょっとだけ待ってください」と申請してみたり。「生きていくってこんなにお金がかかって、こんなに辛いものなのか」と思っていました。

——泣く子も黙るデスマッチファイターにもそんな現実的な問題が。

デビューして3年が経った27歳くらいのころ、大怪我をして。そのタイミングで大日本を辞めて、1年間の欠場期間を経て、ZERO-ONEという別の団体に移籍したことがあります。

ZERO-ONEは元新日本プロレスの橋本真也さんが立ち上げた団体で、大日本と比べればお給料もそこそこいいし、結構な頻度で興行もあるから、試合もできる。環境としてはかなり恵まれていました。

でも、団体の方針で、自分の大好きなデスマッチができなかった。あの「サラリーマンレスラー」時代は、生存はしつつも、デスマッチファイター葛西純、プロレスラー葛西純としては完全に死んでいたと言っていいんじゃないかな。

「やっぱり自分のやりたいプロレスをやろう」と思ってZERO-ONEを辞め、そこからは好きなプロレスを貫いてきました。だから「悔いなく死ねる」と言えるいまがあるのかもしれません。

結局、好きなように生きて、「なんの未練もないや」と思って死ねる奴が勝ち組だと思うんで。そういう意味では、現代人は生きることの本質を見失ってるのかもしれないですね。一生懸命仕事をするのはいいけれど、ぶすっとした顔で、やりたくもないことをやっているのだったら、そんな人生でいいんだろうか、と。

俺は一生笑わないで100年生きるより、毎日バカ笑いして20年生きるほうがずっといい。そういうものなんじゃないかな、人生って。100年生きようが、バカ笑いできない人生だったら、それこそ死んでるようなもんじゃないですか?

デスマッチファイター

葛西純

1974年、北海道生まれ。98年、大日本プロレスに入団。CZWジャパンを結成し、渡米するとCZWのリングで活躍。2002年、大日本プロレスを退団。ZERO-ONE、ハッスルなどを経て、アパッチプロレス軍に所属。09年、佐々木貴とともにFREEDOMSを旗揚げ。同年、プロレス大賞ベストバウト賞を受賞した。Twitter:crazymonkey0909

写真:本永創太

執筆:鈴木陸夫

編集:日向コイケ(Huuuu)

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