DEATH.

「DEATH.」は、あらゆる職業や立場の人との対話を通して「死」を探求するプロジェクトです。

ゾンビになるな、応答セヨ。「with DEATHの時代」に求められる念仏的人生観

新型コロナウイルス感染症の世界的な蔓延により、「死」が僕らにとってかつてないほど身近なものになった。

それは個人だけでなく、法人も同じだ。名の知れた企業の倒産や、大好きな個人商店の廃業の知らせを耳にする機会も増えた。「勤め先が潰れたら?」「業績低迷で人員整理の対象になりはしないか?」--。法人の死は、こうしたかたちで僕らの不安を一層煽る。

なによりも生き延びるために、目の前のものに必死にしがみつきたくもなる。それが人間というものだろう。

だが、同時にこうも思うのだ。何かの終止符が打たれることや死の気配にビクビクしながら、息を潜めてやり過ごすのが、本当に僕らの望む生なのだろうか、と。

今回の取材は、こうした生と死にまつわる疑問を抱いたところからスタートした。

「人はみんな死ぬ。法人だって死ぬ。そこと向き合うことから生は始まる。コロナがもたらした『with DEATHの時代』。これはある意味で、正気を取り戻すチャンスだと思うのです」

そう語るのは、浄土真宗本願寺派光明寺の僧侶、松本紹圭さんだ。

松本さんは、僧侶でありながらMBAを取得するなど、ビジネスや経営にも造詣が深いことで知られる。最近では「産業僧」を名乗り、企業経営者や働くビジネスパーソンとの、1on1の対話の場を提供。自らも産業界の一員としてビジネスに携わりながら、共に生のあり方を探っている。

生き生きとした生を取り戻すために--。ビル群のただ中にある小さなお寺の境内で、「with DEATHの時代」に必要なことを松本さんにうかがった。

生き延びるために生まれてきたわけじゃない

——コロナ禍により死が身近になりました。死ぬのは怖い。会社が潰れて放り出されるのも怖い。でも、いまあるものにしがみつき、息を潜めて生きるのが本当に正しいのかとも思うんです。

おっしゃることはとてもよくわかります。自分のnoteにも書きましたが、私も先日コロナウイルスに感染しました。発症したのが出張先の東京だったので、そのまま東京のホテルで療養することにしました。

都民でもないのに受け入れてもらえるのは、とてもありがたいこと。ですが、隔離生活は過酷でした。仕方のないこととはいえ、閉じ込められているわけですから。「人間的な生活とはなにか」と、改めて考えさせられました。

——人間的な生活とはなにか。

自分自身の生存も、社会全体にリスクを広げないことも、もちろん大切です。でも、私たちは生存するために生きているのかと言えば、そうではないでしょう。

有名な「マズローの5段階欲求説」でも言われるように、底辺にある生存の部分を安定させる必要はある。けれども、それさえできていれば満足かと言えば、そんなはずがない。人間らしい生を送るには、「自分はなんのために生きているのか」と、自らに問い続けることが必要なのではないでしょうか。

——誰しも最初は自分なりの理由を持って人生の決断をしているはず。なのに気づくと初心を忘れてしまうのはなぜなんでしょう。

「初心を忘れる」とおっしゃいますが、「なんのために」が変わること自体は問題ではありません。

生きていれば、ひとつの出会いや経験が価値観を180度変えてしまうこともありますよね? それは法人も同じ。時代が変われば、それに伴ってミッションや提供価値が変化するのは自然なことです。

たとえば、この光明寺が建立されたおよそ800年前、ここ霞ヶ関は奥州古街道の要所として機能していました。「雲霞(うんか)を隔てた遠方を望む関所」とも言われる地名の由来は、遥か古来にまで遡ります。同じ看板を掲げているとはいえ、この土地が、そしてこの光明寺が世の中に提供していた価値は、高層ビル群に囲まれる現代とはまったく違ったものだったでしょう。

問題は変化することではなく、「なんのため?」と自問するのを忘れてしまうことです。

売上、利益、ポジション、名声……。法人も個人も、日々の生活の中ではいろいろと執着してしまうことはあります。そのように仕向けられていると言ってもいい。そんな中で「なんのため?」と自問することを忘れれば、こうした世間の作った物差しで測られる世界へと容易に埋没してしまうことになる。

それはおっしゃるように、生きながらにして死んでいる状態と言えるかもしれません。私はそれを「正気を失った状態」と呼んでいます。

依存先が一つしかないことの危うさ

私は日ごろ「産業僧」を名乗り、ビジネスパーソンとの1on1の対話の場づくりをしているのですが、活動をしていて感じるのは、現代のビジネスパーソンは非常に正気を失いやすい状況にあるということです。

——どういうことでしょうか。

人間というのは一人で立っているようでいて、実際はほかの人との関係によって成り立っています。

たとえば、いま私がこのような表情、このような言葉遣いで話しているのは、目の前にみなさんがいるからです。一人だったらそうはならないし、目の前にいるのが別の人であれば、表情や言葉遣いはまた違ったものになるでしょう。

そして、そういう関係がたくさん集まって、一つの集合宇宙のようにしてできているのが「私」という存在です。こうした人間観を仏教では「縁起」と呼びます。

作家の平野啓一郎さんが唱える「分人」という概念にも近いものだと思います。一人の人間の中にはいくつもの人格(分人)があり、その複数が集合して個人はできているという発想です。

家族、同僚、友人知人……。人間が正気を保てるのは、このように複数の関係を持っているからです。別の関係を持っているからこそ、「ああ、いまの自分はこっち側のものの見方にハマりすぎていたな」と気づくことができるのです。

東京大学先端科学技術研究センターの熊谷晋一郎先生は「自立とは、たくさんの依存先を持つことである」とおっしゃいますが、その通りだなと思います。

翻って、現代のビジネスパーソンは会社という一つの関係に依存しすぎていると感じます。それは具体的には、時間の使い方として現れます。24時間365日のほとんどを仕事に費やしている。それでは正気を保てるはずがありません。

結果、ある種の洗脳状態に陥っているのではないか、ということです。産業僧として接する多くのビジネスパーソンが「自分にはいまいる場所以外に居場所はない」「手放したら終わりだ」とおっしゃるのも、そういうわけではないかと思っています。

一旦、荷物を全部降ろしてみては?

 

——どうすれば正気を取り戻せるでしょうか。

世界的にコロナウイルスが広がり、「死」が身近にあるいまの状況は、ひとつのきっかけになり得るのではないでしょうか。

要するに「メメント・モリ(死を思い出せ)」です。個人も法人も、やがて必ず死ぬ。人生は有限である。そして死んでしまえば、しがみついていたものもすべて手放す以外にない。こうした当たり前の事実と向き合えば、「その有限な人生を自分はなんのために生きるのか」と自問する気になるかもしれません。

産業僧の活動でも、よくそういう話をします。1on1では、まずは相手の話を仕事に限らず、なんでも聞くようにしているのですが、最終的には「いろいろ執着してしまうけど、結局、私たちはやがて必ず死にゆく存在、最後にはすべてを手放すほかないですよね?」と問いかけることも多いです。

場合によっては、「そこまでいまの仕事が辛いのであれば、ほかの選択肢を考えてみるのも良いですよ。たとえば、転職を考えてみたことはありますか?」などと、こちらから転職の話題を持ち出すこともあります。

——転職、ですか。

「Aにしますか? Bにしますか?」と言われると、一見、自分で選ぶ自由があるように思えます。でも、それはまやかしです。提示された選択肢の中から選んでいる時点で、その人はすでに支配の魔法の中にいる。実際はそれ以外にもたくさんの選択肢があるのに、そのことに気づけなくなってしまうのです。

「自分にはいまいる場所以外に居場所はない」とおっしゃるビジネスパーソンは、まさにそういう状態に陥っています。ですから、「一旦、すべて手放してみてはどうか?」「その上でフラットに考えてみませんか?」と提案をしているわけです。


誤解しないでいただきたいのですが、私は別に転職を勧めているわけではありません。一度手放してフラットに考えた上で、それでもなお「自分はこの場所に居続けるのだ」と思えるなら、居続ければいいんです。

一昨日も昨日もそうしていたから、今日も当たり前のようにそうするというのではなく。たくさんの選択肢がある中で、それでも今日の自分はこれを選ぶのだ、と言えるかどうか。そのために一旦荷物を降ろし、都度背負い直すことを提案しているのです。
仏教ではこうした考え方を「前後際断」といいます。過去にとらわれず、未来を憂うことなく、いまを生きよ、ということです。

手放すのは誰でも怖い。善き友人を持て

——ですが、多くの人にとって「手放す」のは怖いです。しがみつきたくなるのが人間ではないですか?

それはそうでしょう。私もそうです。だからこそ昔から仏教では、恐れを大切に取り扱ってきたのだと思います。

仏教には三つのお布施があります。財を施す「財施」。仏法を説いて会得させる「法施」。それと並ぶものとしてあるのが、人々の恐れを取り除いて安らぎを与えることを意味する「無畏施(むいせ)」というお布施です。古代インドの時代からこうした教えがあるように、恐怖というのはそれだけ、人間に本来的に備わったものであるということです。

加えて現代の日本は、社会の仕組み自体が「しがみつきマインド」を助長するようにできているとも感じます。

——どういうことでしょうか。

たとえば、最近は「エンゲージメント」というカタカナ言葉をよく耳にしますよね。終身雇用・年功序列が崩壊し、実体としてはかなり殺伐としている中で、企業は恣意的に作った物語やインセンティブなどにより、社員を無理やり結びつけようとしているように見えます。

また、会社が社員をクビにできない法律にも、功罪の両面があるように思います。労働者が勝ち取った権利のように言われますが、本当にそうでしょうか?

簡単にクビにできないということは、簡単に雇用できないということでもあります。これは労働者側から見れば、新たな勤め先を見つけるのが非常に難しいことを意味します。それではしがみつきたくもなろうというもの。挑戦するより、失敗しないようにという意識が先行するはずです。

その結果、産業構造の転換も進まなくなり、社員だけでなく会社のクビもじわじわと締められていくのではないでしょうか。それが、いまの日本の停滞にもつながっている気がします。

——社会は簡単には変わらない中、どうすれば手放せますか?

ブッダは「善き友を持ち、善き仲間がいることは、修行の半ばではなく、そのすべてである」とまで言っています。善き仲間を持つ。これに尽きるのではないかと。

先ほども触れたように、「私」というものは、たくさんの関係の集合としてできています。元来、一人では正気を保てないものなのです。正気を保つには、どうしたって善き仲間の助けが必要です。

では、善き仲間とはなにか。「仲間」と聞くと、たとえば同じ組織に属している人が思い浮かぶかもしれません。私の場合で言えば、同じ宗派の僧侶たちです。

けれども、私の経験からすると、ブッダの説いた「仲間」は「所属」の話ではなかったのだろうと思います。むしろ大事なのは、別の宗派、別の宗教、もっと言えばそもそもなんの宗教も信じていない人との対話の方ではないか、と。

価値観の違いを超え、「生きるとはなにか」「やがて死んでいく人生をいかに生きるのか」といった、素朴ではあるけれども本質的な問いを共有する人とのつながりが、よほど大事だと感じます。

その人なりのやり方で、正気を保とうともがいている人。そういう人と腹を割って話せる関係が大切になってくるのではないかと思うのです。

先の見えない時代。求められる念仏的態度

もう一つ、「with DEATHの時代」には念仏的な生き方や考え方が大事になっていくだろうと思っています。

——念仏的、ですか。

日本仏教を世界に伝えた鈴木大拙という人がいます。ひとくちに日本仏教と言ってもいろいろな宗派がありますが、鈴木が特に大事にしていたのが、坐禅と念仏という二つの流派です。

最近になり、坐禅の考え方は、マインドフルネスなどを通じて随分と広まりました。ここで取り上げたいのは、念仏の方です。

念仏というのは、実践としては「南無阿弥陀仏」と唱えますが、自分で唱えつつも、「聞こえてくる」ものでもあります。念仏を英語に訳すと「calling」というのもこの話に通じていて、ここで「聞こえてくる」のは、仏様からの呼びかけです。

わかりにくいかもしれませんが、國分功一郎先生の議論を借りて、能動でも受動でもない「中動態」的なものだと考えると、言わんとするところをうまく捉えられるのではないでしょうか。

古代ギリシア語には、能動態とも受動態とも違う「中動態」という態が存在します。日本語にはない態なので我々には馴染みがないのですが、実際には、この世の中には中動態としてしか理解できないことがたくさんあります。

たとえば「感謝する」という行為。日本語で表現すると能動態になってしまうのですが、誰かに対して本当に感謝するには、「ありがたい」と思う気持ちがどこかから降りてこなければなりません。「ありがとう」と言葉を発するのは自分ですが、完全に自分が主体的に行っている行為かといえば、必ずしもそうとはいえないのです。

「謝罪する」というのもそう。「申し訳ない」という気持ちは、自分の意思でどうにかできるものではないですよね?

考えてみれば、今日のこの取材にしたって、自分たちの意思だけで成り立っているわけではありません。さまざまな要素が絡み合い、奇跡的にこのようなかたちとして成立しているもののはずです。

このように、自分たちの想像を超えた、預かり知らない力によって成立しているのがこの世界です。念仏的な生き方というのは、まずは世界がそのようにしてできているものだと受け入れること。その上で、ある意味、ご縁に身を投げ出していくような姿勢を言っています。

——ご縁に身を投げ出す姿勢。

自分の意思で夢や目標を持つのは構いません。そこへ向かって努力することも否定しない。ですが同時に、そうではない未来に対してもオープンな態度でいようということです。とりわけ不確実性が増すと言われるこれからの世の中では、そうした姿勢が大切になってくるだろうと考えています。

「神の呼びかけ」に応答セヨ

昨今は「自己責任」という言葉を見聞きする機会も増えましたが、私はその言葉に少し違和感を感じます。

「責任」という言葉はもともと日本語には存在せず、明治期に英語の「responsibility」が訳されたもの。「responsibility」の語源は「response-ability」だから、「応答する能力」といった意味の言葉です。つまり、「自己責任」は「自分に応答する」ということ。でも「自分に応答する」というのは、考えてみるとよくわからない言葉ですよね?

たとえば、道に倒れている人を見かけたら自然と声を掛けるでしょう? それが「responsibility(応答する能力)」という言葉の本来の意味だったはず。でも、日本語で「あなたには助ける責任がある」と言われると、なんだか責められているような感じがしてしまう。

——「責任」という言葉のもつ意味は、本来もっとしなやかなものだったと。

はい。そう考えると、「responsibility」を「責任」と訳したのは、世紀の誤訳だったと言ってもいいかもしれません。そこから「責任」は押し付けあい、避けるべきものになってしまった。それがいまの日本社会に漂う恐れにもつながっているように思えます。

冒頭から繰り返し触れている「なんのために生きるのか?」という問い。これは、その人自身の強い意思を問うているようでいて、実際は神仏からの「calling(呼びかけ)」にどう応答するかという話でもあるということです。

神からの呼びかけ、すなわち分別を超えた、自らの内奥深くに響く声に耳を傾け、自分なりの「response-ability」をどう発揮していくかということが、強く問われているのではないでしょうか。

 

現代仏教僧

松本紹圭

1979年北海道生まれ。現代仏教僧(Contemporary Buddhist)。世界経済フォーラム(ダボス会議)Young Global Leader、Global Future Council Member。武蔵野大学客員准教授。東京大学文学部哲学科卒。2010年、ロータリー財団国際親善奨学生としてインド商科大学院(ISB)でMBA取得。2012年、住職向けのお寺経営塾「未来の住職塾」を開講し、以来10年間で700名以上の宗派や地域を超えた宗教者の卒業生を輩出。著書『お坊さんが教えるこころが整う掃除の本』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)は世界17ヶ国語以上で翻訳出版。邦訳書に『グッド・アンセスター わたしたちは「よき祖先」になれるか』(あすなろ書房)。noteマガジン「松本紹圭の方丈庵」発行。ポッドキャスト「Temple Morning Radio」は平日朝6時に配信中。Twitter:@shoukeim

写真:本永創太

執筆:鈴木陸夫

編集:日向コイケ(Huuuu)

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