DEATH.

「DEATH.」は、あらゆる職業や立場の人との対話を通して「死」を探求するプロジェクトです。

控えめに言って不老不死。「超越」としての植物が、ぼくらの世界を有意味にする

東京・三田にある観葉植物専門店「REN」。明るくモダンだが、それ以上の趣を感じさせる店構えが目を引く。

それもそのはず、母体は創業100年を超える老舗いけばな花材店・東京生花。その四代目・川原伸晃さんが2005年に立ち上げた新ブランドがRENだ。観葉植物に関する相談や植え替え、さらには下取りして再生まで行う「プランツケア」という業界初のサービスにより、大きな注目を集めている。

ところで、一般的な観葉植物の寿命がどれくらいか、皆さんはご存知だろうか。2、3年も楽しめれば長く持ったほう? いやいや、とんでもない。川原さんいわく「植物は本来、不老不死」なのである。

そのポテンシャルを十全に引き出すために、必要なことはなんでもやる。「プランツケア」は、そのような考えの下に生まれたサービスだ。

哲学者・東浩紀さんが代表を務める動画配信プラットフォーム「シラス」でも発信するなど、「哲学好き」を公言して憚らない川原さん。植物とはなにか。死とはなにか。存在とは。時間とは……。「プランツケア」は、川原さんが積み重ねてきたこうした数々の哲学的な問いの産物、という説明の仕方もできるという。

ぼくらは植物のことを知らなすぎたのかもしれない。老いもしない、死にもしない植物とは、一体どういう存在なのか。老い、やがて必ず死を迎えるぼくら人間は、この得体の知れない隣人からなにを学べるだろうか。

哲学から抜け落ちた存在

——今回の取材を引き受けるかどうか、当初相当迷われたとお聞きしました。

「植物とはなにか」「植物にとっての死とはなにか」というのは、これまでの人生でずっと向き合ってきた問いなので、今回のご依頼はぼくにとって、とてもクリティカルなものでした。嬉しかった反面、だからこそ軽々には引き受けられないところがあったのは事実です。

でも、ご依頼をきっかけにあらためて考えを整理できましたし、いい機会をいただいたと思っています。

——普段から「植物とはなにか」にまで立ち返って考えている園芸店は、なかなかほかにはないんじゃないでしょうか。

そうかもしれません。そもそも哲学において、植物というのはずっと見落とされてきたテーマなんですよ。

一般に哲学と言った時に、その内訳のほとんどは西洋哲学を指すわけですけど。哲学がこれまでに扱ってきた問いというのは本当にさまざまで、その中には、たとえば「動物の死とはなにか」といったものもある。けれども、植物に関しては主体的に論じられてこなかったんです。

——それは、命を持たないモノとして扱われてきたから?

おっしゃる通りです。古代ギリシャまで遡れば、「植物の生」「聖霊」といった概念もあるにはあるのですが。キリスト教的な、一神教の世界観が広がるにつれて、植物は石同然のモノへと貶められていった

一方で、八百万の神という言葉に象徴される東洋の世界観では、植物はずっと無視できない存在としてありました。RENの母体である東京生花が祖業としてきたいけばなも、まさにそのような世界観の中にあります。

いけばなのルーツは供花です。一旦は命の潰えた植物を仏さまに供えるにあたって、少しでも延命するとか、生き生きとして見せるために、さまざまに工夫を凝らす。その中で発達していったものがいけばなである、というのがぼくの理解です。

ですから、決して単なる装飾術ではない。むしろ、植物を「活ける」ことにより、「植物とはなにか」と問うているようなところがあります。

——「活ける」という行為自体が哲学的というか。

自分はいけばな花材の専門店に生まれ、さまざまな流派でいけばなを実践してきました。その中で、いま話したような価値観に自然と触れて育ったところがあります。

ですから、その後に西洋的な園芸を学ぶにあたっては、ただの飾りを超えるアプローチがないことに、すごく疑問を持つことになりました。そのことが、業界の中では異端と見られることも多い、現在の活動にまでつながっているように思います。

控えめに言って不老不死

——川原さんはRENの取り組みを「それまで活けられてこなかった観葉植物を活ける営み」と表現しています。そもそも「活ける」とは?

ひとことで言うなら、植物の最適化です。

その最適化が意味するところにも二つあって、一つは美観的な部分、もう一つは寿命に関わる部分。要するに、見た目的にもいい感じだし、それがちゃんと持続可能な状態にすることを「活ける」と言っています。

ぼくは十代のころ、花の業界で仕事をしたり勉強をしたり、広い意味の修行をして過ごしました。東京生花に入ったのは、24歳だった2005年。入社にあたっては先代である父から「新しいことをやれ」と言われ、社是の「活ける」をベースに、どんな新しいことができるだろうかと考えることになりました。

当たり前ですが、いけばなの世界は、もう行き着くところまで活け尽くされている。盆栽も、先ほどの意味に照らして、すでに活けられているように思えた。逆に「活けられていないものはなにか」と考えたとき、観葉植物はそれにあたるように思えたのです。

——見た目には美しいように思える観葉植物。問題は持続可能性にある?

その通りです。植物そのもののポテンシャルを学ぶと、観葉植物が置かれている現状は、おかしいとしか言いようがないんですよ。

そもそも植物というのは、控えめに言って不老不死なんですから。

——控えめに言って不老不死!?

そうです。なにもぼくだけが突飛なことを言っているわけではなくて、植物の生態学を素直に読めば、そう書いてある。もちろん「不老不死」とは書いていないですけど、普通に考えて、そうとしか解釈できない。

これは実際に証明されていることでもあります。世界最古の植物として知られるユタ州にあるポプラの木は、8万歳と言われていますから。

——8万歳ですか。

このポプラは個体ですらありません。山全体に群生しているポプラは、すべて地中の根で一つにつながっている。だからDNAとしては同じです。仮に地表にある1000本の木のうち、1本がダメになっても、残りの999本は健在。そしてまた新しい木が生えてくる。これはもう「不老不死」と言っていいですよね?

こう言うと、中には「そんなものほぼ地球じゃん! ずるい!」と思う人もいるかもしれません。でも、鉢に植えられたものに限っても、世界最古の盆栽である「真柏」は1000歳です。

そしてこれらの例は、決して奇跡的に生まれた特別な存在ではないということ。生態学的に見て、植物とはそういうものなんです。

そういう植物のポテンシャルを知れば、2、3年でダメになってしまう観葉植物の置かれた現状は、どう考えてもおかしい。このように考えたところから、現在に至るRENの活動は始まっています。

ケアによって世界は有意味になる

——控えめに言って不老不死。であれば、その観葉植物がたった2、3年でダメになってしまうのはなぜですか?

持てるポテンシャルを発揮できないよう、“リミッター”がかけられているからです。

植物を売る側からすると、売ったものは一定期間でダメになってもらわないと困る。そうしないと、次のものが売れないと考える。あえて言葉を選ばずに言うなら、計画的陳腐化によって成り立っていたのが、この業界なんです。

——“リミッター”というのは?

端的に言えば、土の状態が良くない

一般的な園芸店では、農園から出荷された状態のまま売られていることがほとんどです。けれども、そのまま植え替えることをしないと、どれだけ上手に育てても2、3年でダメになってしまうものなんです。

これは、ちょっと調べればすぐにわかることなんですけど。あまり喧伝されることがないから、お客さんはもちろん、末端で販売だけしているアルバイトの人でさえ、理解していなかったりする。

ですから、RENではまずはすべて植え替えることで、“リミッター”を外した状態で販売しています。そして、売った後まで責任を持つために、必要なケアを提供するサービスとして「プランツケア」を始めた。販売とケア、その二枚看板で観葉植物を「活かす」ことに取り組んでいるというわけです。

——その「ケア」という言葉に込めた思いを伺いたいです。というのも、この言葉には、植物との関係に限らず、人間が世界と関係を結ぶ上での重要なヒントがあるような気がしていて。

よくぞ聞いてくれました、という感じです。

サービスを始めるにあたっては、「プランツホスピタル」「プランツドクター」「プランツレスキュー」など、ほかにもさまざまなネーミングの候補がありました。その中で「プランツケア」というサービス名を選んだのには、自分なりの思いがあります。

20世紀を代表する哲学者の一人であるハイデガーは、「ケア(気遣い)」という言葉を重視したことで知られており、「ケアが世界に意味を与える」という趣旨のことを言っています。

——ケアが世界に意味を与える。

ぼくらを取り巻くこの世界というのは、最初からこのように意味あるものとしてあるわけではない。ぼくら人間が「気遣う」ことにより、そこに初めて意味が生まれるのだ、と。いわば、気遣いが世界を世界たらしめている。ケアのない世界は存在していないのと同じである、とハイデガーは言っています。

そこで、観葉植物です。観葉植物は自然の中にある植物と違い、人間によるケアが欠かせません。つまり、観葉植物は人間にケアを促し、世界を有意味にする存在と言えなくもない。

「ケアしないではいられない」とは、言うなれば「愛着を感じる存在」ということ。それこそが植物の一番の存在意義ではないかというのがぼくの考えで。

そういう存在が増えれば増えるほど、ケアにより、世界に意味が与えられていく。人間がよりよく生きることにもつながるのではないかと思うんです。

「家族を下取りする」という“矛盾”

——面白い! ですが、「愛着を感じる存在」ということで言えば、ペットと変わらないのでは?

その通りです。ぼくは家族というものを「愛着を感じる存在」と捉えているのですが、ペットを家族と呼ぶことに異論を唱える人はもはやいませんよね。植物もいずれそうなるのではないか、というのがぼくの考え。いや、そういう感覚で植物を育てている人は、すでにたくさんいるでしょう。

いくつかの意味で人類は今後、これまでのようには家族を持ちにくくなる、孤独になっていくと言われています。家族を再定義し、従来の家族に代わる、愛着を抱ける存在の必要性が増しているわけです。

こうした流れの中で、植物は今後一層、家族化していくはずです。なぜって、繰り返し述べているように植物は不老不死。ケアが必要と言っても、ペットの餌代ほどはお金がかかりません。排泄物の多さや、鳴き声の問題もない。都市生活者の新たな家族として、とても向いていると思います。

——あえてお聞きしたいのは、RENが行っている下取りサービスとの関係です。「家族」を「下取りする」ということに矛盾はありませんか?

まさにそこが重要なポイントだと思っています。

下取りサービスを始めるまでも、ぼくらは手を替え品を替えして必要なケアを提供してきましたが、基本的には、こちらはサポートをする立場。実際にケアするのはお客さま自身、というスタンスでした。

けれども、転勤や子育て、介護、入院など、日々生活する中では、どう頑張っても植物にまで気を使えない状況というのは、やはりあるじゃないですか。これまではそういうお客さまに対して「なにを甘えたことを。命をなんだと思っているんだ!」と言う以外になかったんです。

——その反応で自然ですよね? だって「家族」なんですから。

でも、それでは先ほど話したような「愛着を感じる存在としての植物」という文化は根付かないんですよ。止むに止まれぬ事情があっても手放すことが許されないと言うのなら、最初から手を出そうとは思えないですよね?

「シラス」でもお世話になっている哲学者の東浩紀さんは「真の公共性は開放性ではなく、訂正可能性にある」とおっしゃっています。

——開放性ではなく、訂正可能性?

たとえば、デモを想像してみてください。なにか主張がしたいと思ったら、誰であってもそのデモに参加できる。これが「開放性がある」という状態です。

けれども、一度参加した後に「やっぱり違うな」と思ったとき、容易に離脱できない仕組みだったら、そもそも参加しようとは思えないでしょう。 「訂正可能」だからこそ流動性は生まれる。その状態こそが真の公共ではないか、と東さんは言っています。

そんなことをぐるぐると考えていた時に、ヒントをくれたのはAppleでした。ぼくは以前からAppleのGenius Barをよく利用していたんですが、そこでは、5年使ったMacを「次の人にも大切に使ってもらえよ」と笑顔で手放すことが肯定されている。

真に文化として醸成するには、持続可能にするサービスと合わせて、手放すことを肯定するサービスが不可欠なのだと気づかされました。下取りこそが「プランツケア」のラストピースだったんです。

実際にサービスを始めてしばらくして、一人の女性が下取りを依頼してきてくれました。理由を尋ねると「元カレからもらったものだから。正直、嫌な別れ方をした。もう育てたくない」と。それを聞いて、ぼくは思わず膝を打ちましたよ。「自分はなんていいサービスを作ったんだ!」ってね。

超越を飼い馴らせ

家族化に限らず、動物で起きていることはだいたい植物でも起きる、というのが流れです。とすると、いずれ植物愛護の流れも確実に来る。スイスではすでに、みだりに枝を折ることは違法である、と条例で定められていたりもします。

でも、ぼく自身はそうした過剰な植物愛護には反対なんです。

なぜって、そもそも人間より植物のほうが、生命として上だと思っているから。だって不老不死ですよ?

そんな強大な存在に対して、過剰な愛護心を持つこと自体がおかしいでしょう。恐竜に立ち向かっている人がいたとして、「それは恐竜虐待だ!」なんて言う人がいますか? 植物愛護というのは、それくらいにねじれた言葉だと思ってます。

——そういう人間を超えた存在である植物と日々接することは、人の死生観にどんな影響を与えると思いますか?

前述のハイデガーは、死についても考えていた人でした。ハイデガーは「人間は死の先駆的了解により人間になる」と言っています。平たく言えば「メメントモリ=死を思え」的な話です。

哲学的には、人間が主体的に人格形成するには、超越性が不可欠だとされています。神、自然、あるいはハイデガーの言う「死」もそうです。そういう自分を超越したもの、説明不可能なものにさらされることなしには、人間は完成しないと言われているのです。

ぼくの考えでは植物もまた、そのようなものとなり得るのではないか、と。不老不死。無限に分割可能で、個体ですらない。生まれて、老いて、死んでいくという、我々人間のような直線的な線分で生きていない。始まりも終わりもなく、円環的にずっとつながった世界観にあるのが植物という存在です。

そして、そんな植物を手元でケアするのが園芸という行為。ですからこれは、哲学的に見れば「超越の飼い慣らし」とでも言っていいのではないかと。

——超越の飼い馴らし!

宗教観もない。そういうことを教えてくれる存在としての「頑固ジジイ」ももはやいない。それが現代日本の都市じゃないですか。そういう場所に生きる人にとって、唯一超越と触れられる機会が園芸ではないか、と。毎年縄文杉を拝みにいく、とかしなくてもいい。いつもそこにある超越、です。

そういう超越的な植物の世界観に日々触れていると、「人生なんてそんなもんか」と、少し肩の荷を下ろせるところがあるかもしれないですね。「自分もいずれ誰かのための堆肥になる。個としての生にそんなにしがみつかなくてもいいんだ」と思えるかもしれない。

逆にそういう存在に触れていないと、すべてが人間にコントロール可能で、プログラムを変えたら思い通りになるという驕りにもつながるんじゃないでしょうか。

……なんて、ぼくは園芸屋なので、そんな大それたことを言う職業ではないんですけど。でも、そういう助けにもなるんじゃないかと思って、日々この店を営んでいます。

 

園芸家

川原伸晃

東京生花株式会社代表取締役社長、REN創業者、創業1919年いけばな花材専門店四代目、欧州国際認定フローリスト、Wellant College European Floristry 修了、2010年経済産業省主催デザイナー国外派遣事業に花卉園芸界の日本代表として選出、2011年花卉園芸界のデザイナーとして初めてグッドデザイン賞を受賞、2018年業界初となる循環型アフターサービス「プランツケア」開始、2020年業界初となる植物の二次流通「リボーンプランツ」開始・商標取得、2021年プランツケアの拠点となる「プランツケアラボ」設立、

Twitter@n_kawahara

HP:https://www.ren1919-shop.com/

写真:本永創太

執筆:鈴木陸夫

編集:日向コイケ(Huuuu)

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